小規模ホテルの簿記 — 経営者が月に見るべき3数字
簿記は税理士に渡すものではなく、経営者が毎月見る「宿の健康診断」。売上・粗利・現金——3つの顔を1枚に並べ、前年同月と比べ、理由を1行書く習慣の設計です。

「簿記」と聞くと、確定申告のために税理士に渡すもの——そう捉えている小さな宿が、少なくありません。でも、簿記の本来の仕事はもっと日常的です。毎月の健康診断。数字は、頑張りをほめるためでなく、宿の体調の変化に早く気づくために見ます。本記事は、経営者が月に見るべき3数字——売上・粗利・現金——を、税務署のためでなく自分のために見る話です(以下は一般的な考え方の整理です)。
1つの取引を、2つの顔で見る
500年前のヴェネツィアの商人が、現金の出入りだけの記録に満足しなかった理由は、今の宿と同じです。売れた額と、残った額は、同じ宿の別の顔だから。そして宿には、この「2つの顔」を毎日体験する瞬間があります。予約金——口座には入ってくるけれど、まだ宿のお金ではない。泊まるという約束を果たす義務が、同時に増える。複式簿記の精神は、前受金の1行で、いちばんよく分かります。
3つの顔 — 売上・粗利・現金
月次の3数字は、同じ宿の3つの顔です。
- 売上 — 客の顔 — 客室、F&B(朝食・レストラン)、その他(物販・体験・デーユース)に分けて数えます。分けると「何で稼いでいる宿か」が見えます。
- 粗利 — 仕入れの顔 — 売上から原価を引いた残り。原価にはリネン、洗濯、食品ロス、OTA手数料も入ります(OTA手数料を可視化するが扱う、見えにくい原価の1つ)。粗利率(粗利÷売上)が下がれば、原価か単価のどちらかが動いた合図です。
- 現金 — 財布の顔 — 今月、手元にいくら残ったか。売上が上がっても現金が残らなければ、経営は苦しい。3つの顔のうち、いちばん正直な顔です。
現金の深読みを、1つだけ。手元の現金を「毎月必ず出ていく額(固定費+返済)」で割ると、宿が無収入で生きられる月数が出ます(一般的な考え方)。「利益は意見、現金は事実」という古い言葉があり、利益が出ていても資金が回らなくなる「黒字倒産」という言葉が残っているのは、この2つが別の顔だからです。
1枚の作り方 — 12行と1行
- 3数字を12ヶ月分、1枚に並べる — 紙でも、スプレッドシートでも。季節の山と谷が、行の並びになって見えます。
- 前年同月と比べる — 宿の数字は季節の影響が大きい。比べる相手は、前月ではなく前年同月です。
- 増減の理由を、1行だけ書く — 「地ビールの導入でF&Bが増えた」「リネン代が上がった」。分析は長く書かず、理由は1行。長い分析は、3数字が代わりに語ってくれます。
制度の2行だけ(執筆時点)
税務の話は、ここまで。簿記の本題は申告書ではなく、毎月の3数字です。
静かな場所の30分
月に1回、30分だけ。場所は事務所ではなく、静かなところ——渋いカフェでも、朝の誰もいない食堂でも。コーヒー1杯の間に3数字を見て、次の打ち手を1つだけ決めます。売上の顔が弱ければ販路、粗利の顔が弱ければ仕入れ、現金の顔が弱ければ経費。打ち手は1つ。30分以上やると、会議は長続きしません。
反対側 — 3数字の5つの落とし穴
- 完璧な複式簿記から始めて挫折する — まずは3数字。複式簿記への本格移行は、月次が2、3回続いてからでも遅くありません。
- 記帳そのものに時間を取られる — レシートは受け取った場で写真に。月次の入力には、記帳代行という選択肢もあります。
- 見るだけで終わる — 打ち手を1つ決めない月次は、眺めるだけの写真と同じです。
- 現金があるのに安心する — 前受金は、これから果たす約束。手元にあっても、使っていい額とは限りません。
- 数字を1人だけが見る — 体調の変化に気づくのは、毎日見ている人と、毎月見ている人の両方です。
最初の一歩は、来月の締め日に過去3ヶ月の3数字を1枚に並べること。宿の健康診断は、過去を見るところから始まります。12ヶ月分が揃った時、その1枚は、初めて「かかりつけの記録」になります。
次に読む
- 収益管理の基礎 — ADR・稼働率・RevPARの読み方 — 3数字の先の、宿泊の専門数字の話
- OTA手数料を可視化する — 粗利を静かに削る1つの原価の話
- エネルギー削減 — 「収益の口座」としての基礎 — 経費を「稼ぐ口座」として見る話
- 宿の保険 — 起きる前に知っておく「リスク」 — 起きた時のお金の話


