Human Capital / HRBP人的資本経営
INSIGHT対象: 経営者・支配人

人の力は蓄積されるのか

「人を育てても、辞めてしまえば何も残らないのではないか」「『人的資本の蓄積』と言うが、人はいつか宿を去る存在ではないか」。宿泊業を営む中で、人の定着難や世代交代に直面したとき、経営者の心に去来するこの問いは極めて切実です。個人の肉体や記憶は宿に留まり続けませんが、人の力は宿という器の中に確かに蓄積されていきます。この記事では、人的資本カテゴリーの締めくくりとして、宿における「人の力の蓄積」の本質を探ります。


人が去っても、残るものがある

建物や温泉設備は、年月の経過とともに老朽化していきます。1方で、そこで働く人々の営みは、適切に手入れをされる限り、時間を経るほどに深まり、熟成されていきます。

しかし、「人が退職したら、その人に投じた教育投資は無駄になってしまう」という恐れに囚われると、経営者は人への投資をためらい、短期的なコストの節約に走ってしまいます。

確かに、個人としてのスタッフはいつか宿を卒業する日が訪れます。

しかし、その人が残した「所作の型」「工夫された段取り」「後輩への優しい眼差し」「お客様との温かい思い出」は、目に見えない無形の資産として、宿の空気やチームの記憶の中に静かに溶け込んで残ります。

人の力は個人の中に閉じるのではなく、宿という「器」の中に蓄積されていくのです。

人の力が宿に宿る3つの器

宿の中で人の力が失われずに蓄積されていくための「器」には、主に次の3つがあります。

  • 日々の振る舞いという「型」の器——お茶の淹れ方、玄関の掃き掃除、お客様への会釈の間合いなど、先輩から後輩へと身体を通じて受け継がれる身体知です。
  • 職場の安心感という「文化」の器——「ここでは困ったときに助けを求めてよい」「新人の失敗を皆でフォローする」という組織風土そのものが、代々のスタッフによって耕された資本です。
  • 宿の暖簾に宿る「信頼」の器——スタッフが誠心誠意お客様と向き合った記憶が、「あの宿に行けば温かく迎えてもらえる」という宿への深い信頼となり、次の世代のお客様とスタッフを結びます。

この3つの器が整っている宿では、1人の退職によって組織全体が揺らぐことはありません。

蓄積を途絶えさせる2つの過ち

人の力を宿の資産へと変えられず、散逸させてしまう背景には、2つの典型的な過ちがあります。

  • 過度な属人化の放置——特定のベテランの頭の中にだけノウハウを閉じ込め、後輩への伝承や言語化を怠ると、その人の離脱とともに貴重な資本が消滅してしまいます。
  • 無機質な仕組みへの過信——マニュアルや作業手順書を作ることだけに満足し、その裏にある「なぜそうするのかという想いや文脈」を伝え忘れると、型は残っても心のない作業へと堕ちてしまいます。

人を大切にするとは、人を抱え込むことではなく、人の知恵を宿の命として分かち合い、次へ手渡すことです。

2つの百年の宿の物語

人の力の蓄積に対する向き合い方によって、宿の未来はどのように分かれるでしょうか(※宿泊現場の実情を踏まえたケーススタディです)。

  • A館(個人に依存し続けたホテル)——腕の良い名物料理長とカリスマ支配人の2人に頼り切り、若手の育成や組織づくりを後回しにしていました。2人が高齢で現場を退いたとき、宿にはレシピも顧客台帳のメモも残されていませんでした。代わりの料理人を雇っても以前の味は再現できず、常連客は去り、歴史ある名館は急速に衰退していきました。
  • B館(人の知恵を年輪にした旅館)——代々の女将と料理長は、「自分が得た気づきや工夫を、欠かさずノートに書き残し、後輩に実演して教える」という文化を守り抜きました。百年の間に何百人ものスタッフが宿を通り過ぎましたが、1人ひとりが残した小さな工夫が積み重なり、宿のサービスは年々洗練されていきました。今では全国から「おもてなしの心を学びたい」と志の高い若手が集まる宿となっています。

差は、「人の力をその場限りの消費としたか」、「宿という器に注ぎ込み、年輪のように蓄積させたか」にあります。

自館で確認しておきたい4つのポイント

  • あなたの宿には、過去に働いてくれたスタッフたちの知恵や想いが残っていますか。
  • あなたはスタッフが日々の現場で生み出した工夫を、宿の共有の財産にできていますか。
  • 宿の重要な業務や接客の型は、次の世代へと手渡せる形になっていますか。
  • あなたの宿は、去っていくスタッフに対しても「ここで働いてくれてありがとう」と心から送り出せる場所ですか。

リーダーが今日からできる小さな工夫

自館で受け継がれている「大切なおもてなしの仕草や言葉」を1つ思い浮かべ、それが誰から受け継がれたものかを現場のスタッフと話してみてください。

  • 人の想いのつながりを確かめ合うことが、宿の誇りと人的資本をより強固にする力になることもあります。
  • 現場スタッフの知恵や力を尊重し、未来へと手渡す経営姿勢こそが、あなたの宿を時代を超えて光り輝かせる代替の利かない持続的な人的資本になります。

あなたの宿の歴史は、ここで汗を流した1人ひとりの温かな命の蓄積です。



NEXT READ

HC002人的資本経営とは何か・宿泊業での考え方→ LR033教育投資と人的資本の関係→ HC014人的資本と育成の関係→